読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

INFOLATION

ハースストーンの英語記事を日本語訳にして載せます。twitterのアカウントはhttps://twitter.com/Qe8Gxです。フォローしてください!

春は短し走れよ受験生

私的記事

 

 まず、声を大にして言いたいことは「現代文の勉強になるから、小説を読む時間も勉強時間に入れます」といった考え方は止めておいた方がいいということだ。

 確かに、高校受験にしろ、大学受験にしろ、小説を読み解く問題は必ず出題される。私立文系は知りません。そうなると、確かに小説を普段から読む事も当然、勉強と言えるかもしれない。

 だが、ここには罠がある。果たして小説を読んでいる時に、私たちは登場人物の心情や描写の意図を考えているだろうか。なんとなくで読み進め、ストーリーを薄くなぞっているだけではないのか。それが間違った読書法である、などということを言いたいのではない。実際、私の個人の意見としては、読書などは娯楽の一つであり、その楽しみかたは人それぞれである。文句を言いたがるやつは「読書している俺かっけー」と悦に入りたいだけの人物なのだと軽蔑している。

 話を元に戻す。つまりは、ただ娯楽として気楽に行う読書は、勉強にはなり得ないということだ。ということは、ただの読書を勉強時間に含む行為は、勉強時間を増やしたいがための自己満足的な行為となる。そのようなマスターベーションに耽ること自体、愚かなことではないか。本当の満足は結果によって勝ち取るべきである。努力の内容によって得るべきではない。増してやこの場合の努力は偽りに増されたものではないか。

 このことはこの記事の読者(大方はハースストーンプレイヤーであろうが)のみなさんにもすんなりと分かっていただける事だろう。もしも、本当に読書が勉強たりうるとするならば、その場合の読書とは、夏目漱石先生の『こころ』を線引きしながら一文一文の意味を考える行為を意味する。決して、ラノベを読み、妄想の世界に浸ることではないのだ。

 「では、どうすればよいのか」とみなさんは考えるだろう。私が答えを差し上げよう。きわめて明瞭だ。

 森見登美彦先生の『夜は短し歩けよ乙女』を買えばよいのだ。

 文庫本を古本屋で買えば三百十円程度で買うことができるはずだ。本来ならばこのような素晴らしい本を退屈な世の中に生み出してくれた森見先生に感謝すると共に、新品の単行本を千円程度で購入するべきだ。だが、これは受験生を想定した記事である。財布に余裕のない読者をさらに苦しめるわけにはいかない。

 この本をみなさんに勧める理由は一つしかない。

 主人公たちが京都大学に通う大学生であり、話の舞台が京都だからだ。

 私も京都の大学に通う大学生である。それ故にこの小説を更に楽しむ事ができた。仮に京都の地を知らなかったとしたら、迷わず京都を訪れていたことだろう。それほどこの小説が映し出す京都は魅力的だ。

 この小説を手にした受験生諸君は、間違いなく

 大学生ってこんなに怠けてるんかよ。たのしそー。京大いきてー

 となるだろう。

 ここで一つのツイートをご紹介したい。

 

為末大を知らない人はいないだろう。もしご存じなければ、ネットで調べてみてくれ。つまりすごい人なのだ。

この記事の意図するところが分かっていただけただろうか。

つまり、この『根本の欲求』を育てる方法こそが、『夜は短し歩けよ乙女』を読む事なのだ。

京都大学に通いたいと思う、その欲求こそが勉強机に向かうエンジンとなるのだ。私は、京都大学には通っていない。同志社大学だ。おっと、身バレしてもいいんですかと思っていただけたかもしれない。問題ない。なぜなら、私には大学の友達がそれほど多くいないからだ。それでも大学は楽しい。とんでもなく楽しいのだ。

 本来ならば、小説の感想やレビューを書くべきなのかもしれない。だが、内容に一切触れることなく、感想を書いたり勧めたりするということほど難しいものはない。内容に触れてしまった時点で、森見さんのアイデアを少しでも利用してしまっていると私は考えてしまう。ネタばれとは、物語の核心に触れることではない。少しでも紹介してしまったらそれはネタばれなのだ。なぜなら他者のアイデアを利用し、自らに注目を集めさせているのだから。

 だが、あらすじ程度は書いておく。これは、文庫本の裏表紙に書いてある程度だし大丈夫だろう。

 「先輩」が大学の後輩である女性に片思いをするという物語だ。少しばかりファンタジーが混ざっている。あと、文体が難しい。表現もなかなか難読。ただ、笑えるはずだ。

 ここまで読み終えた方は、その意味のわからない現代文の参考書など投げ捨てて、『夜は短し歩けよ乙女』を走り求めよ。

 

※この記事は、その効果を保障するものではありません